05.06.03:12
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03.05.05:06
木曜日の平定
考えていたら突然、
空から答えが降ってきた。
もう別にいつ死んでもいいかなーと
思ってたら、
何で?俺はこんなに死を受け入れだした
のかな?と考えてみた。
死という未知なる恐怖心や、
生から得られる繁栄の無への回帰など
が恐怖や拒絶に繋がるはずなのに
なぜ、死を意識できるのか?
が、問題だとふつうに分かる。
発想の転換をしたら分かった。
俺は、死ぬのが恐いとか受け入れないとか
という路線を納得して受け入れたのではなく、
生きるということを諦めたからこそ、
死に対しての後ろ向きな考え方を捨てれたの
だと思った。
それは、生きていれば最期は死によって無に帰す
だろう。
そこで、死によって全てを失うからこそ
生への執着が生まれる。
しかし、死ぬことによって無に帰することこそが
全ての心理である。
だからこそ、全力で人は命を燃やすのではない
だろうか?
無くなってしまうからこそ、今を大切にするのでは
ないだろうか?
死んでしまうからこそ、人は後悔の無い人生を
送らなくてはいけないのだろうか?
これは、何が悪いことなのだろうか?
それは、死を損得勘定で受け止めるからこそ
とても醜い生き方や考え方になるのだろうと考える。
だからこそ、自分の全てを開放して、
全てを受け入れ、全てを諦めることを受け入れていくことが
生きるということを諦めることに繋がるのではないか?
極意は、自然体で生きること。
感謝を忘れないこと、事物法則に逆らわないこと、
素直な気持ちでいること、日々精進すること、
感情の赴くままに生きること。
そうすれば、無理に考えずにストレスを溜めずに
人間本来の生命力で生きていける。
あまりに、今までの行き方や思考や行動には
無駄が多すぎた気がする。
その無駄によって本来持っている、人間の生命力を
活かしきれていないことに気がついた。
それを忘れないで、精一杯の優しさと情熱で
この世の中っていう器で生きてる俺の決意。
今おれがこれから生きていくための
スローライフな20歳の平和宣言!!
ってか、俺が目指すべく精神世界がとりあえず
この日記で完結したような気がする。
もう、こういう内容は書かなくていいかも。
だって、この法則で生きれば一通りは
葛藤もあるけど納得できる答えがでる。
また、ひとつ成長した気がする。
だから素直に生きるって楽しい。
無理に捻じ曲げて、生きようとするから
疲れるんだよね。
自然体であるがままに受け入れる心が大切だよね。
こういうカチコチの概念を解放しなきゃ
本来のあるべき力が出せない。
そして、生きることを諦めるというのは何か?
それは、自然の法則を捻じ曲げたり、
自分勝手な欲に支配されたり、感謝を忘れたり、
自分に奢ったり、自分の弱さから逃げたりして
生きることを諦めるということを自然と自分で
納得したのだと思う。
自然の法則を受け入れるからこそ、
死を受け入れたのかなと類推はできる。
煩悩からの脱却はできない。
煩悩と理性はもしかしたら表裏一体で
対をなしているのかもしれない。
しかし、その表裏を意識して生きるのと
意識しないでいきるのとは、
また違った景色が目の前に広がると信じている。
結局、人間は無力なんだよ。
そして、人間は生物なんだよ。
自分の生物としての潜在能力を
高めることが、生物としての生命力を
高めることに繋がると思う。
だから、生きるんだよね。
これを俺は言いたかったんだと思う。
自然体=free style=おれ。
空から答えが降ってきた。
もう別にいつ死んでもいいかなーと
思ってたら、
何で?俺はこんなに死を受け入れだした
のかな?と考えてみた。
死という未知なる恐怖心や、
生から得られる繁栄の無への回帰など
が恐怖や拒絶に繋がるはずなのに
なぜ、死を意識できるのか?
が、問題だとふつうに分かる。
発想の転換をしたら分かった。
俺は、死ぬのが恐いとか受け入れないとか
という路線を納得して受け入れたのではなく、
生きるということを諦めたからこそ、
死に対しての後ろ向きな考え方を捨てれたの
だと思った。
それは、生きていれば最期は死によって無に帰す
だろう。
そこで、死によって全てを失うからこそ
生への執着が生まれる。
しかし、死ぬことによって無に帰することこそが
全ての心理である。
だからこそ、全力で人は命を燃やすのではない
だろうか?
無くなってしまうからこそ、今を大切にするのでは
ないだろうか?
死んでしまうからこそ、人は後悔の無い人生を
送らなくてはいけないのだろうか?
これは、何が悪いことなのだろうか?
それは、死を損得勘定で受け止めるからこそ
とても醜い生き方や考え方になるのだろうと考える。
だからこそ、自分の全てを開放して、
全てを受け入れ、全てを諦めることを受け入れていくことが
生きるということを諦めることに繋がるのではないか?
極意は、自然体で生きること。
感謝を忘れないこと、事物法則に逆らわないこと、
素直な気持ちでいること、日々精進すること、
感情の赴くままに生きること。
そうすれば、無理に考えずにストレスを溜めずに
人間本来の生命力で生きていける。
あまりに、今までの行き方や思考や行動には
無駄が多すぎた気がする。
その無駄によって本来持っている、人間の生命力を
活かしきれていないことに気がついた。
それを忘れないで、精一杯の優しさと情熱で
この世の中っていう器で生きてる俺の決意。
今おれがこれから生きていくための
スローライフな20歳の平和宣言!!
ってか、俺が目指すべく精神世界がとりあえず
この日記で完結したような気がする。
もう、こういう内容は書かなくていいかも。
だって、この法則で生きれば一通りは
葛藤もあるけど納得できる答えがでる。
また、ひとつ成長した気がする。
だから素直に生きるって楽しい。
無理に捻じ曲げて、生きようとするから
疲れるんだよね。
自然体であるがままに受け入れる心が大切だよね。
こういうカチコチの概念を解放しなきゃ
本来のあるべき力が出せない。
そして、生きることを諦めるというのは何か?
それは、自然の法則を捻じ曲げたり、
自分勝手な欲に支配されたり、感謝を忘れたり、
自分に奢ったり、自分の弱さから逃げたりして
生きることを諦めるということを自然と自分で
納得したのだと思う。
自然の法則を受け入れるからこそ、
死を受け入れたのかなと類推はできる。
煩悩からの脱却はできない。
煩悩と理性はもしかしたら表裏一体で
対をなしているのかもしれない。
しかし、その表裏を意識して生きるのと
意識しないでいきるのとは、
また違った景色が目の前に広がると信じている。
結局、人間は無力なんだよ。
そして、人間は生物なんだよ。
自分の生物としての潜在能力を
高めることが、生物としての生命力を
高めることに繋がると思う。
だから、生きるんだよね。
これを俺は言いたかったんだと思う。
自然体=free style=おれ。
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