05.06.04:30
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03.01.00:34
戦略論特講
僕には、大切な友達がいる。
いつも、僕を支えてくれ戒めてくれる。
昨日の出来事で思うことは、
寝るといくらかストレスが取れイライラが
収まるということだ。
いわゆる、風化に近づいたのである。
今日は、あまり良い日では無かった。
いつもの事である。
ここで、現在の俺がどのような
人生哲学で生きているかを
紐解き整理したいと思う。
自分が何者で、これからどのような生き方を
してどのように死ぬかは誰も教えてくれない。
その中で、堅実に粛々とこなしていく中で
芽生える感情があつまり、疑問が発露し
思考を続け目的を見つけ自己実現へ推移し
一喜一憂を繰り返し、柔軟に生きる。
できないことを可能にする過程に悩み苦しみ
葛藤して、何かを掴むのである。
大切なのは、自分は普通以下であり
自分は何者でもない事を自覚し、
身の丈に合った生き方を
選択して実行し僅かなでささやかな
営みを社会から享受するのである。
他人を思いやり、慈しみ、尊重する。
この気持ちのやりとりが、
自らの心に安住の永地を与え
ゆとりという隙間をつくることによって
盲目で私利私欲に走ろうとする弱さから
くる煩悩を封じ込めるのである。
必要以上の利益を乞うような、
浅はかで愚かな感情を捨てなくてはいけない。
なぜなら、利益と言うのは必然であり
自分独りで育てた果実ではないからである。
その果実を必要以上に欲することは、
自然の摂理に反することである。
それは、身を滅ぼす第一歩であり
精神衛生上、自分の事しか考えなくなり
結果、他人との共存を保障できるだけの
人間にはなりえない。
つまり、自分が生み出せない能力以上の
果実を求めては絶対にいけない。
これは、自分のために求める感情すなわち
向上心と置き換えて考えるような者であれば
言葉が持つ表裏と言う樹海に迷い込むので
ある。
要するに、能力が無く実行に移せないやつ程
精神性だけは有利に運びたいと考える生き物で、
自分中心に考える。
落とし穴には、もちろん気がつかない。
それは、他人の力を借りる前提の思考回路のくせに
いつも、行動する際の思考回路には自分中心で
物事を運ぶのである。
何がデメリットなのか?
まず、他人との均衡が取れないし
力が働く関係性をまるで理解していないせいで
捉える作業もしなければ把握もしない。
一番大切な構図を描けないがために
自分が何をしたいのかを分からないままに
資源を垂れ流して無駄にするのである。
何よりも自分に対する根拠の無い万能感のせいで
完全にこういう奴らの頭の中にはインセンティブ(報償)
という概念が抜け落ちる。
つまり、双方向が利益を享受する仕組みを構築できない
のである。
結論からして、相手に利益を与える事ができないのである。
そういう人間を無能と呼ぶという形で最初に戻るのである。
すばらしい・・。
頭がキレる奴はもちろん気がついていると思うが
敢えていう。
人は、自分の都合の良い方向に捉え解釈する。
主観的観測の欠点には、人間の無意識による
自己防衛本能が働き自分を疑うことが
できなくなるのである。
つまり、謙虚さが気づきを生み
自分の方法論を疑う唯一の自分の思考の力で
気がつくきっかけを与えてくれるのである。
都合の良い傲慢な思考は、
間違いに気がつかせないほど巧みに
無限循環し、間違いに辿りつけない樹海へ
誘うのである。
どうすれば、良いのか。
自分は普通以下であり、
なにものでもいことを自覚し、
自分の能力で生み出せないもの以上の
果実を求めずに只、自然の摂理に
沿った生活を営み感謝をし
自分を取り巻く環境を敬うのである。
そうすれば、自ずと道は開けるのある。
この考えは、現在の俺を形づくるまでに
至る集大成の理論である。
現時点ではほぼ、完璧の域まで
きているし、生涯を通して落とし込む作業を
するのである。
誰も見ていなくても、天は見ている。
因果応報で、結局のところ自分が
地獄を見るはめになる。
精進を怠らないことこそ、生きる道である。
(完)
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